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総合政策学部・2005年

総合政策学部2005年解説+プレアン様・羅花様 添削

 以下の資料は、2001年以降のこの問題に関する新聞の報道と社説です。
これらを読んで、以下の問いに答えてください。なお、あなたの考えを論理的に書いていただければ、どのような立場をとられてもけっこうです。

問1 学校での国旗・国家は、どのようにあればよいと思いますか、できるだけ、あなたの体験も交えて、考えを述べてください(800文字以内)

問2 学校から一歩広げて、日本社会において国旗・国家はどのようにあればよいと思いますか。あなたの考えを述べてください。
2005年 慶応義塾大学 総合政策学部 小論文より抜粋
これに関して、プレアン様と羅花 様というお二人から小論文のご投稿をいただきました。特にプレアン様からは、
この問題では、総合政策的アプローチをどのように使えばいいのか分かりませんでした。
特に問2は、総合政策に向いていない回答だと思います。
でも、どうすればいいのかわからないので、厳しい指導お願いします。
と、ご解答をいただきました。この問題は、かなり総合政策的アプローチ向きだと私は思っています。というより、総合政策的アプローチでないと解答を自信を持って書きづらいと思います。せっかくですので、本番での頭の整理のために、問題を順番に解いていきましょう。なお、これはブロマガで説明している2011年環境情報学部小論文の説明のミニ版と思っていただければよいかな、と思います。

試験前に反芻すべき信念

試験開始直前です。あなたは、自分の席に座り、小論文の開始の合図を待っています。お昼ご飯の時間に気持ちを切り替えて、学科試験モードから小論文モードになっています。試験問題も配られて、手持ちの参考資料を開く事はできません。いま、あなたが頭の中に抱くべき3つの信念があります。これを反芻しましょう。

試験前に反芻すべき信念
・SFC小論文は「あなたがSFCにおける問題発見・解決を行う素地があるかどうかを確認する試験」です。
・したがって、全てのSFC小論文の問題は「SFCにおける問題発見・解決の枠組みである総合政策的アプローチ」を用いて」読み解くことができます。
・「SFCにおける問題発見・解決を行う素地があること」を「設問への答え」として示すのがSFC小論文です。

(ブロマガの特講第13課 コンピテンシー小論文としてのSFC小論文をお読みいただけると理解が深まります。)

さて、試験時間がはじまりました。

1:総合政策的アプローチのとっかかりを見つける

資料をザッピングする(ここの方法例はブロマガ「特講第1課:合格のためには必読!!「問題冊子のフレームワーク」!」「特講第2課:問題冊子のフレームワーク(2011年環境情報学部過去問での実戦)」を見てください)と、基本的には「国旗掲揚・国家斉唱」の是非に関する資料ばかりであることに気づきます。(この気づきは難しくないですよね?)さて、「国旗掲揚・国家斉唱」は少なくとも「行動」です。言い換えると「国旗を掲揚する」「国家を斉唱する」ですからね。そうなると「国旗掲揚」や「国歌斉唱」は何らかの「解決策」です。この設問上は、「問題になる」か「原因になる」か「解決策になるか」は分かりません。けれども、「解決策になりうる」ことは確かです。だって「行動」ですから。

解決策であるかどうかの見分け方

解決策の見分け方
・現在の「悪い状態」を「良い状態」に変えるものであること
・死人テストをパスすること(解決策=行動であるから)
の双方を満たすこと

死人テストについては、おまけ記事:2012年 総合政策学部小論文の「設問」読解や、【添削】環境情報・2003年(Hong 0様)「ロボット兵器」に対してどう総合政策的アプローチを使用するかで説明していますね。読んでおいてください。行動分析学という学問分野の用語と同じ意味なので、Googleで検索いただいても意味は理解できると思います。解決策はこの両方の条件を満たす必要がありますが、見分けるのに両方の条件が必要であるという意味ではありません。死人テストにパスすれば、とりあえずは「解決策にできる」と見なしてかまいませんし、状態を変えていれば「解決策である」と見なしてかまいません。今回は、「国歌斉唱」や「国旗掲揚」は死人にはできないので「行動」になり、「解決策」と言えます。



この見分け方で解決策が見つかったら、基本は今年は「解決策」が問われている、と考えて問題ありません。「解決策」と考えれば80%の確率でうまく行きます。今回は残りの20%にも近いパターンなので、復習に丁度いい出題です。この程度の内容を反射的に考えられるようになればしめたものです。

2:設問を読解する

さて概ね今年のテーマの概要は把握できましたので、あとは設問をしっかり読解しましょう。その前に、恐ろしい事実をひとつだけ指摘しておきます。総合政策的アプローチは、ここまでの読解の範囲で、君が代問題や日の丸問題に関する予備知識を一切使いません。ここから先もほとんど使いません。使うのは読解力だけです。もちろん、知ってて損はないですけれどもね。それは頭にいれておいてください。知識なんかなくてもSFC小論文は解けちゃうんですよ。さて、設問の読解です。

これらを読んで、以下の問いに答えてください。資料を読む事は求められそうです。
なお、あなたの考えを論理的に書いていただければ、どのような立場をとられてもけっこうです。あなたの主義は問いません。論理的に、あなたの主義を書いてください、ということです。「あなた」が問われているので、自分目線で考えることも重要ですね。環境情報学の創造第02回を見てみてくださいね。
問1 学校でのまず「学校」という舞台が定められました。後に、これはポイントになります。
国旗・国歌は、資料を読んでいれば分かりますがこれらが主題になるようです。
どのようにあればよいと思いますか曖昧語です。「どのようにあればよい」というのは難しいですね。一見、価値観にも見えます。あとに任せましょう。
できるだけ、あなたの体験も交えて、体験を必ず答案に入れる必要がありそうです。
考えを述べてください(800文字以内)はい。

問2 学校から一歩広げて、日本社会においてこの部分だけ「学校」→「日本社会」に入れ替わっています。
国旗・国歌はどのようにあればよいと思いますか。あなたの考えを述べてください。前問と全く同じです。

ブロマガじゃないんでこの程度にとどめておきますね。まぁ、細かく読んでいくと、こんな感じです。

2011年総合政策学部小論文設問から考えてみる

さて、我々は2014年の試験を受ける身です。2005年の総合政策学部の試験について、もっといろんな角度で考えることができます。この問題を一番分かりやすく説明してくれるのが、2011年総合政策学部の設問です。これに思いが至れば、ほぼこの問題は解けたようなものです。
「ある枠組み(価値基準・規範)の中で考えたサブシステムにおける定量/定性的な最適解は、別の枠組みで考えると最適にはならないことを認識し、枠組みの設定こそが重要であり、そのために絶えず物事に対しズームをきかせながらとらえ俯瞰するといった、全体のパースペクティブを意識的に持たねばならない」と指摘します。これこそが、総合政策学のアプローチの主要な部分といえます。
慶応義塾大学総合政策学部2011小論文過去問より抜粋
この文章は何度も引用しているのですが、それだけ重要ということです。2005年の設問をそのまま引用すると、学校から一歩広げて、日本社会においてとある通り、「枠組み」を「一歩広げて」、「全体のパースペクティブを意識的に持って」いるんです。おもしろいことに、いいえ、確実に故意でしょうが、この資料文1〜17は全て「学校」という現場に立場を押しとどめています。そういった状態から、つまりは「自分」で考えられる「学校」という枠組みから、「日本社会」へのパースペクティブの転換をきちんと図れるか、を確認されているようです。

とっかかりが見えてきましたね。あなたがSFCにおける問題発見・解決を行う素地があるかどうかを確認する試験と考えれば、この部分はしっくりきませんか。2011年の設問では、このパースペクティブの転換を自分で行う必要がありますが、この設問はその枠組み自体、わざわざ設問で指定してくれているので、その分やさしい問題なんです。この問題って。

3:総合政策的アプローチを軸に発想を広げる

発想のための基礎知識

さて「国歌斉唱」「国旗掲揚」は解決策です。
「解決策」があれば必ず解決策が対象とする「問題」があるし、問題があれば問題を問題たらしめる「価値観」がある。問題発見・解決なんて畢竟それとその間の関係性を意識するだけのことですよ。
と、私はつぶやいていますので、必ず「問題」や「価値観」があるはずです。

さらには、「解決策」とは?:総合政策的アプローチの理解を深める「問題」とは?:総合政策的アプローチの理解を深めるで書いているように、「逆方向」から頭を働かせて「解決策」から考えていくのもよいでしょう。

発想のとっかかり

この時の頭の働かせ方は簡単です。「分かるもの」から「分からないもの」へ、頭を働かせていきます。「国歌斉唱」「国旗掲揚」が「解決策」だとすると、このトピックで一番かんたんに分かるものは「副作用」です。「国歌斉唱や国旗掲揚により傷つく人が発生してしまう」という悪いことが起こっています。これは読解力の範疇内ですよね。逆にわかりづらいものは何でしょうか?「問題」ですよね。「国歌斉唱」「国旗掲揚」という解決策が「何を解決しよう」=「どんな悪い状態からどんなよい状態に変えようとしているか」が定かではないのです。これが定かになれば、構造化=原因を考えることも容易です。ということは焦点になるのは、「問題」です。

もっとも、これは総合政策的アプローチの頭の働かせ方から当たり前の事実でもあります。枠組みを「学校」や「日本社会」に変えたら「問題」が変わるのは当たり前ですよね。その「問題」や「原因」が設問上明確にされていないのです。

設問の不明点を明確化する

さて、設問の不明確な点に戻りましょう。どのようにあればよいと思いますかですね。「学校」や「日本社会」という枠組みを出題者が明確化したため、曖昧な一連のニュースをきちんと見直す必要があります。したがって、枠組みに応じた「問題」を記述する必要があるでしょう。そして次に「原因」も書ければなおよいでしょう。最後に、あなた自身の「問題設定」に伴い、現状の「国歌斉唱」「国旗掲揚」という解決策の方針が変わるかもしれません。それも書くべきでしょう。

もう少ししっかり書けば、「どのようにあればよいと思うか」とは、
「学校」と「日本社会」という2つの枠組みを設定した場合に
 ・あなたは、その枠組みの中で、現状のどのような状況を悪いと考えるのか
 ・あなたは、その枠組みの中で、現状を変えるために「国旗」や「国歌」についてどのような行動が取られるべきと考えるのか
  (その行動=解決策は効果があるのか(=構造化)、
   実行可能性はあるか、
   現在起こっている副作用はどうなるのか、新たな副作用は出ないのか)
を述べて下さい。という設問に帰結されます。そして、それをしっかりと書く事で「あなたのSFCにおける問題発見・問題解決への適性を示してください」という問題に変わります。

枠組みと実行可能性について

念のために補足しますと、「学校」という枠組みでは、「国旗」や「国歌」自体を「変更する」という大それた解決策は実現できないでしょう。せいぜい署名をあつめるぐらいです。もちろん、あなたにとっての日本国旗は?のような授業はできるでしょうけれども、それは「国旗」や「国歌」の変更とは別問題です。

一方で、「日本社会」を枠組みにした場合、「国旗」や「国歌」を戦争イメージに結びつかないものに変更する、という解決策は実行可能な視野に入るでしょう。枠組みは、価値観を定めると共に、実行可能性も左右します。この手の問題では、それを考慮すると、よりよい答案になるでしょう。あなたが示すべきは「問題発見・解決力があること」です。学校には学校の、日本社会には日本社会の、それぞれ個別の価値観と解決策がある、という答案の方が目的を果たせますよね。



あとは、総合政策的アプローチがあなたを助けられることはあまりありません。あなたの意見を書くフェーズです。

プレアン様の答案

 私は、学校での国旗・国歌は、生徒が「初心」を思い出すための手がかりとして使用されればよいと考える。
 その理由は、人間は日常生活を送っていると、「初心」を忘れがちになるからである。ここで、私がこの文章で述べる「初心」を、何か物事を始めるときに決心した気持ち、と定義する。学校で国旗・国歌が使用される行事は、入学式、卒業式、始業式、終業式、激励会などが挙げられる。このような行事に参加するとき、私たちは必ずそれぞれの「初心」を抱く。例えば私自身の体験でいうと、夏休みの始まる終業式なら、「一日4時間勉強する。」や、「2週間で宿題を全て終わらせる。」などの「初心」を抱いた。この時の「初心」はとても熱く、固い。ところが、夏休みに入り、長期休暇でしか味わえない外泊、レジャー等の様々な体験を重ねていくうちに、終業式で抱いた「初心」は段々と薄れていってしまうことがあった。しかし、そこで私が偶然、ラジオから国歌の「君が代」が流れてきたのを聞いたとき、すぐに「初心」を思い出した。また、オリンピックなどで表示される日本の国旗「日の丸」を見たとき、同様に「初心」を思い出した。
 この経験から、終業式で目にした国旗や、全校生徒で合唱した国歌を日常生活の中で触れる機会があったとき、簡単に「初心」を思い出すことが可能であることに気が付いた。このことは、何か目標に向かって進んでいく過程で、中だるみしがちなモチベーションを保つための一つの方法として確立できると考えた。
 以上が、学校での国旗・国歌は、生徒が「初心」を思い出すための手がかりとして使用されればよいと考えた理由である。


私は、日本社会のおいて国旗・国歌は、自らが日本国民の一員であることを自覚し、一貫した理念のもとに存在しているということを認識させるようにあればよいと考える。その理由は2つの理由からなる。
まず1つ目は、自分自身が日本という1つの国を構成している一員であることを自覚することは、連帯感や責任感を生むために必要であると考えるからである。もし、日本の象徴である国旗・国歌が存在しなかったとしたら、自分はどこに属し、国にとってどのような存在であるのかを考える機会がなくなるため、国の秩序や治安などを考えないで自分勝手な行動を起こすだろう。これは日本社会において「悪」であり、この「悪」になる原因を無くすために、国旗・国歌があると考えるからである。
2つ目は、国という単位で区分されている共同体に私たちが属している以上、必ず何らかの理念、例えば政治的な理念や、宗教などのもとに成り立っている。このことを理解するためには、テレビやラジオなどのマスメディアが報じるだけではなく、目に見える何らかの象徴や、メロディーにのせた歌が必要であると考えるからである。そして、その結果、ある理念のもとに存在していることを認識することができ、協調性を持った行動ができると考えるからである。
全般に、論理的にはきれいですよね。

問1は、「私」ではなく「学校」という立場で書くべきでしょう。「学校」にとって、「国歌・国旗」はどういう問題を解決するのか。例えば、新聞記事では、「規律を学ばせる」という視点を書いていますよね。そういったものに触れないとダメだと思います。この答案のままでは、学校生活において、あなたは国歌・国旗とどう向き合うのか、という設問の答えになってしまいます。問1単体でみたらまだ許容範囲ですが、問2を含めると変な答案になっちゃいますよね。

問2は、「国旗掲揚」「国歌斉唱」に対する国の行動がイマイチ不明確です。逆に、問題設定としてはありだとは思います。理由1と理由2に重複感があるので、「国旗掲揚」「国歌斉唱」に対するスタンスを明確化し、問題設定=価値観については1つに絞ってはいかがでしょうか。もし、日本の象徴である国旗・国歌が存在しなかったとしたら、自分はどこに属し、国にとってどのような存在であるのかを考える機会がなくなるため、国の秩序や治安などを考えないで自分勝手な行動を起こすだろう。は、実効可能性=原因を示す部分ですが、さすがに言い過ぎかと。「君が代」「日の丸」がなければ、「自分勝手になる」ということですから。そして、その結果、ある理念のもとに存在していることを認識することができ、協調性を持った行動ができると考えるからである。も、ちょっと言い過ぎ感がありますね。

羅花様の答案

 新聞には、国旗・国歌法に関する数多くの意見が載せられている。生徒の側には動揺もあるようで、また国歌斉唱の際に教師が着席し続けたことを理由とする処分に反対する声や、教師には義務があるのだから、処分は当然だったとする主張もある。このような中で、学校における国旗・国歌はどのようにあるべきだろうか。
 私が中学3年生の時、全校生徒が集められ、国旗・国歌に親しみを持つように、と言われたことがあったのだが、そのころ私達の学年では在日韓国・朝鮮人の人々について考える授業を行っていた。私達は在日の女子生徒の、彼女達のアイデンティティともいえるチマチョゴリを切り裂いた日本人などがいることについて意見を言い合った。そういったことをしているうちに、私は、戦争がもたらした心の溝はまだなくなっていないことを自覚するようになり、これでは戦争が残した在日の人々と日本人との間のその心の溝は広まっていくばかりではないかと考えるようになった。
 国旗・国歌には戦争の影が付きまとうから、それを学校において強制することは在日の人々を無視することになり、在日の人々と日本人との間の心の溝は一層深まってしまう。在日の人々の問題との関わり方は学校ごとに異なっており、画一的に強制することはできない。国旗・国歌の扱い方はそれぞれの学校の判断を任せるべきだ。
 確かに、それでは自国への尊敬と誇りは育たない、とする主張もあるかもしれない。だが自国への尊敬と誇りは自主的に育つものであって、それは強制できるものではない。たとえばフランスやアメリカにおける国旗・国歌は、市民革命の際に自由を獲得する過程において国歌・国旗へとなっていったのである。自国に対する尊敬や誇りは、強制的に育てることはできない。むしろ、強制すると子ども達の不安と嫌悪が増すだけである。

問2
 国旗・国歌が国家への尊敬の象徴となるのであれば、何も問題はないのではないか。
 国際的スポーツ大会における国旗・国家を考えてみたい。
 オリンピックでは、優勝者または優勝チームの自国の国旗が最も高く掲げられ、国家が演奏される。日本の選手にとって「日の丸」が高く掲げられ、「君が代」が演奏される瞬間は、何にも代え難い貴重な体験になるのだと言う。またそれを見守る日本国民にも、それは忘れられない瞬間になる。この場合には、国旗・国家の否定的な面はなく、問題はないように思われる。
 だが、国旗・国家が事件に関わったことがあった。昨年のサッカーアジア杯の日本対中国戦がそうである。「日の丸」が高く掲げられ、「君が代」が演奏された時、中国側のサポーターからブーイングが湧き起こり、試合終了後には暴動が発生した。もちろんこのことは、「日の丸」「君が代」が、日本が中国を占領した日中戦争を中国の人々に強く思い起こさせるから起こったのであろう。
 しかし、確かに、国内では「日の丸」「君が代」それ自体への抵抗もあるが、外交面では、それら自身よりも日本が中国や朝鮮半島の人々に責任を取っていないことが原因である。中国や朝鮮半島の人々が「日の丸」「君が代」を嫌うのはそれらが戦争の記憶を呼び起こすからである。だとすれば、日本が戦争責任をとれば問題ないのではないか。「日の丸」「君が代」が日本国民の象徴となるためには、中国や朝鮮半島の人々に戦争責任を取ることが必要である。国旗・国家が国民の自国を尊重する心の象徴となるのであれば、それらの存在が受け入れられることに問題はない。だが、そのためには、国旗・国家の持つ否定的な側面、つまり、中国や朝鮮半島の人々にあるそれらへの嫌悪感を払拭しなければならない。
問1は、「国歌斉唱」や「国旗掲揚」の学校内での解決策としての意義=価値観にふれていないのが難点。問2は、まだありです。具体性に欠けますが。こちらは詳解しておいた方がよさそうなので詳解します。

問1の詳解

 新聞には、国旗・国歌法に関する数多くの意見が載せられている。生徒の側には動揺もあるようで、また国歌斉唱の際に教師が着席し続けたことを理由とする処分に反対する声や、教師には義務があるのだから、処分は当然だったとする主張もある。このような中で、学校における国旗・国歌はどのようにあるべきだろうか。 ここまで不要。採点対象外。設問で書け、って言われていないよね?
 私が中学3年生の時、全校生徒が集められ、国旗・国歌に親しみを持つように、と言われたことがあったのだが、そのころ私達の学年では在日韓国・朝鮮人の人々について考える授業を行っていた。私達は在日の女子生徒の、彼女達のアイデンティティともいえるチマチョゴリを切り裂いた日本人などがいることについて意見を言い合った。そういったことをしているうちに、私は、戦争がもたらした心の溝はまだなくなっていないことを自覚するようになり、これでは戦争が残した在日の人々と日本人との間のその心の溝は広まっていくばかりではないかと考えるようになった。 この例って、「日の丸」「君が代」が「戦争」を思い起こさせるという事実とチマチョゴリ事件が「戦争」に関する日本人の差別観に端を発していること等を書かないと、ただ曖昧に体験を挙げただけになってしまいますよ。 国旗・国歌には戦争の影が付きまとうから、それを学校において強制することは在日の人々を無視することになり、在日の人々と日本人との間の心の溝は一層深まってしまう。これはあるかもしれません。在日の人々の問題との関わり方は学校ごとに異なっており、画一的に強制することはできない。国旗・国歌の扱い方はそれぞれの学校の判断を任せるべきだ。 この解決策もあり。でも、結局学校内で「国旗」や「国歌」がどのような意味や意義、重要性を持つのかに触れていませんよね。 確かに、それでは自国への尊敬と誇りは育たない、とする主張もあるかもしれない。だが自国への尊敬と誇りは自主的に育つものであって、それは強制できるものではない。たとえばフランスやアメリカにおける国旗・国歌は、市民革命の際に自由を獲得する過程において国歌・国旗へとなっていったのである。自国に対する尊敬や誇りは、強制的に育てることはできない。むしろ、強制すると子ども達の不安と嫌悪が増すだけである。 在日の人々の自国ってどこ?あと、この議論は、フランスやアメリカの国旗・国歌に対して「嫌だ」とみんなが思っていない場合のみ成り立つ議論ですよ。例えば、独立運動が続くタヒチの人って、フランスに対する尊敬や誇りみたいなものが当然あるんですよね?これは議論としてはイマイチかなぁ。国旗や国歌が形成される過程を述べているだけですから。

問2の詳解

 国旗・国歌が国家への尊敬の象徴となるのであれば、何も問題はないのではないか。 結論が先にあるのはOKですが、反語はあまりよくないと考えています。 国際的スポーツ大会における国旗・国家を考えてみたい。
 オリンピックでは、優勝者または優勝チームの自国の国旗が最も高く掲げられ、国家が演奏される。日本の選手にとって「日の丸」が高く掲げられ、「君が代」が演奏される瞬間は、何にも代え難い貴重な体験になるのだと言う。またそれを見守る日本国民にも、それは忘れられない瞬間になる。この場合には、国旗・国家の否定的な面はなく、問題はないように思われる。
ナショナリズムと戦争の関係と、ナショナリズムとスポーツの関係に対して日本人は無頓着であることはよく指摘されますよね。本当かどうかは分かりませんが、北朝鮮のスポーツチームが海外チームに負けると不遇な目にあう、という話がありますよね。これってナショナリズムと戦争の関係に等しいのですよ。まぁ、いいです。ちなみにこれが日本社会にとってどういう側面の価値なのかは不明。ある意味、「気持ちいいからOK」という恐ろしい理論にも見えてしまう。気持ちいいなら麻薬だってOKだよね? だが、国旗・国家が事件に関わったことがあった。昨年のサッカーアジア杯の日本対中国戦がそうである。「日の丸」が高く掲げられ、「君が代」が演奏された時、中国側のサポーターからブーイングが湧き起こり、試合終了後には暴動が発生した。もちろんこのことは、「日の丸」「君が代」が、日本が中国を占領した日中戦争を中国の人々に強く思い起こさせるから起こったのであろう。 これは何がいいたいのかが不明。 しかし、確かに、国内では「日の丸」「君が代」それ自体への抵抗もあるが、外交面では、それら自身よりも日本が中国や朝鮮半島の人々に責任を取っていないことが原因である。一部の人が怒りそうな論調ですね(笑)。中国や朝鮮半島の人々が「日の丸」「君が代」を嫌うのはそれらが戦争の記憶を呼び起こすからである。だとすれば、日本が戦争責任をとれば問題ないのではないか。「日の丸」「君が代」が日本国民の象徴となるためには、中国や朝鮮半島の人々に戦争責任を取ることが必要である。戦争責任をとれば嫌な記憶はなくなる?ここはイマイチ。国旗・国家が国民の自国を尊重する心の象徴となるのであれば、それらの存在が受け入れられることに問題はない。だが、そのためには、国旗・国家の持つ否定的な側面、つまり、中国や朝鮮半島の人々にあるそれらへの嫌悪感を払拭しなければならない。内政干渉と言われたら?あと、在日の視点ばかり入れているけれども、当然「オクニノタメニ」でお亡くなりになった人の家族だって「日の丸」や「君が代」を憎んでいる人はいるかもしれませんよね。そういうものってどうしましょう。

といったところで、よろしいでしょうか?両方、合格最低点には届かないかなぁ。結局「どうあるべきか」について、「どういう問題を解決するか」が曖昧になっていて、現状の取り扱いをどうすべきかについてしか書かれていないので。

それでは。